□中世211. 持明院統と大覚寺統 ◇A [ゴロ] ボク は 幸福か つ 長寿命 が/ 課題なんや ( 北 朝・ 後深 草天皇・ 長 講堂領・ 持明 院統)( 亀 山天皇・ 大 覚寺統・ 南 朝・ 八 条院領) [句意]不幸で長生きしてもつまらない。ボクには幸福でしかも長生きが、課題なんや、という句。紛らわしい正誤問題では、一方だけ完璧で良いので、まず「課題なんや」を覚えることがオススメ。これは東海林のベストのゴロです。 [point] 1. 後深草天皇 から発し 長講堂領 を継承した 持明院統 ( 北朝 )と、 亀山天皇 から発し 八条院領 を継承した 大覚寺統 ( 南朝 )とが皇位を争った。 [解説] 1. 長講堂領 は、 後白河法皇 が持仏堂長講堂に寄進した荘園群。 2. 八条院領 は、 鳥羽上皇 が皇女八条院に伝えた荘園群。 3. 持明院統 は、持明院を院御所とし、膨大な皇室領荘園である 長講堂領 を継承した。建武新政により一時衰退した。しかし新政崩壊により足利氏に擁立され、 南北朝合体 後は皇位を継承して現在の皇室に至っている。 4. 大覚寺統 は、大覚寺を院御所とし、 八条院領 を継承した。鎌倉末期、持明院統と皇位を争って両統迭立が決まる。この皇統の 後醍醐天皇 は建武の新政に成功した。足利尊氏が離反して持明院統の 光明天皇 に譲位させられると吉野に南朝を立てて京都の北朝(持明院統)に対抗したが、南北朝合体後は皇統を外れた。 5.両統の発生は、 後嵯峨 天皇( 上皇)(1220~72、在位1242~46、院政1246~72)が、長子 後深草天皇 (以後その血筋を 持明院統 )にせまってその弟( 亀山天皇 、以後 大覚寺統)に譲位させ、かつ亀山の皇子を皇太子と定め、幕府も認めた。これが両統のはじまり。 6.
【鎌倉時代】107 持明院統と大覚寺統になぜ分裂したか【日本史】 - YouTube
亀山上皇が治天の君になって、揉め事は一件落着!と思いきや、事態はそう簡単には収まりません。 大覚寺統が治天の君になって、一番納得できないのは後深草上皇です。後深草上皇は、出家や上皇の地位の辞退まで覚悟して、その後も幕府と粘り強く交渉を進めました。 この交渉の時に活躍したのが、 西園寺実兼(さいおんじさねかね) という貴族。 西園寺実兼は 関東申次(かんとうもうしつぎ) と言って鎌倉幕府と朝廷との間を取り次ぐ仕事をしていました。なので、幕府との交渉には適任だったんです。 西園寺実兼と北条時宗の間で交渉が行われた結果、 北条時宗は次の天皇を持明院統から即位させることを認めてしまいます。 そして、北条時宗死後の1287年、 後深草上皇の息子が伏見天皇(92代)として即位。 これは後嵯峨上皇の後に起こった亀山or後深草問題よりもさらに根の深い問題です。 亀山or後深草問題は、どちらかを家督に決めればよかったんです。そして大覚寺統が家督を継ぐと決まりました。揉めはしたけど家督の血統は分断されてません。しかし、 この西園寺実兼と北条時宗の交渉によって一度決まった家督が別の血統に移り、分断されてしまいます。 この分断が、両統迭立へと繋がってしまいました。 両統迭立の道のり③:またまた大覚寺統が天皇家の家督! 持明院統の伏見天皇が即位すると、次に納得いかないのは亀山上皇。1289年、亀山上皇は失意の中、南禅寺で出家。法皇となり、次は亀山法皇が幕府との交渉を続けます。 1298年には後伏見天皇(93代)が即位。伏見上皇が院政を行います。そして、亀山法皇はこれに不満を爆発。 亀山法皇 「後嵯峨上皇は私を天皇家の家督にと望んでいた。それなのに持明院統の人物を伏見・後伏見と二代連続で即位させた。これは後嵯峨上皇の意思に背くことになるぞ!
)の座を巡って揉めたわけです。 後嵯峨上皇がビシッと決めてしまえば、揉める事なんてなかったのに、なぜ後嵯峨上皇は曖昧な態度で崩御したのでしょうか? その理由ははっきりとはわかってないんですが、後嵯峨上皇が即位した時の諸事情が関係しているのでは?なんて言われています。 というのも、後嵯峨上皇が鎌倉幕府の意向によって即位した天皇だったからです。 後嵯峨が天皇として即位できたのは幕府(ここ重要)のおかげ なんです。 後鳥羽天皇が承久の乱を起こした後、 鎌倉幕府は危険な天皇が即位しないよう皇位継承に深く介入 するようになりました。その典型だったのが当時の後嵯峨天皇だったんです。 以下は四条天皇メインの記事ですが、後嵯峨天皇即位までの経過となってますので、参考までに。 四条天皇の死因が可愛すぎてクソワロタwその生涯などをわかりやすく紹介する 今回はアホみたいな死因で崩御した四条天皇(しじょうてんのう)について紹介しようと思います。四条天皇はそのトンデモナイ死因ば... だから、余命わずかの後嵯峨上皇はこんなことを思ったんじゃないかと言われています。 後嵯峨上皇 「どうせ俺が何を言ったって、最終的に次の治天の君を決めるのは鎌倉幕府なんだよな・・・。なら、俺が崩御した後の治天の君は最初から鎌倉幕府が決めたら良かろう。」 こうして1272年、後嵯峨上皇は 「後のことは鎌倉幕府に任せる」 と遺言を残して崩御してしまったわけです。 両統迭立の道のり①:亀山系が天皇家の家督! 天皇家の家督問題を丸投げされた鎌倉幕府ですが、実はあまり乗り気じゃありませんでした。 というのも、亀山系と後深草系どっちが天皇家の家督になっても幕府に害をなすことはなさそうだったからです。 承久の乱の時とは事情が違う のです。だから、幕府はこう言って朝廷のボールを返しました。 鎌倉幕府 「後嵯峨上皇はどっちを治天の君にしたがってた?後嵯峨上皇がしたがってた方でいいんじゃなーい。(ハナクソホジー」 こうして朝廷で色々と揉めた結果、生前の後嵯峨上皇は亀山天皇を寵愛していたっぽい!という理由で亀山天皇が天皇家の家督の地位をゲットします。 そして1274年、 亀山天皇(90代)は息子の後宇多天皇(91代)に譲位し、自ら治天の君として院政を敷く ようになります。 ちなみに、朝廷内でイザコザのあった1272年〜1274年というのは、文永の役直前の出来事です。当時の日本は内にも外にも問題だらけだったことがわかります・・・。 上で亀山系とか後深草系って表現を使いましたが、一般的に 亀山系は大覚寺統(だいかくじとう) 、 後深草系は持明院統(じみょういんとう) と呼ばれているので、以下からは大覚寺統・持明院統で表現を統一します。 両統迭立の道のり②:持明院統が天皇家の家督!
多分、後醍醐天皇も同じことを思ったはずです。 後醍醐天皇は、この情けない状況を打破しようと情熱に燃え、天皇親政を目指し倒幕運動を開始 します。(そして、実際に成功する!!) 古今東西、革命とは混沌の中から生まれるものなんでしょうかね。両統迭立は一見ただのグダグダに見えますけど、その混沌(カオス)のエネルギーが、後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅亡させる大きな原動力になったのではないか・・・なんてこの記事を書いて思ったりしたのでした。
鎌倉・室町時代を理解するには、この時代に起こった「天皇家の分裂」を理解することが非常に重要と思われます。 というのも、鎌倉幕府の滅亡も、南北朝時代もこの両統迭立を軸に動いていきます。足利義満によって南北朝時代は終結したことになっていますが、天皇家の分裂はそれ以降も続くのです。 教科書には「両統迭立」がさらっと出てきて鎌倉幕府滅亡。1392年に足利義満によって「南北合一」で南北朝の動乱終了と書いてありますが、この時代を理解するための一助として、詳細にお話したいと思います。 後嵯峨院崩御のあとは後深草か?亀山か?